2011年01月20日

高校課程「倫理」と個人の思想について

センター倫理は78点だったし、本腰入れて勉強したのって1ヶ月だから、どうこう言っても説得力はないかもしれないが。

俺は高2以来ずっと「学問的でない」ことへの危機感を強く持っていた。学問のイメージは伝統のそれに近く、脈々と受け継がれて体系化された知識と発想から新たな体系を織り成していくのが大学とかで学問をすることだという認識がある。
学問的ではないとはすなわち、体系的でないということだ。それは思いつきで物を言っていることを意味する。

そして思いつきでは何だって言える。三流のアーティストが寝転びながら考えついた歌詞と変わらない。
しかしそこには根本的な説得力がない。複雑にくみ立ててきたという深みがないから、本当に賢い人には看破されるし、何よりも実世界で何一つ通用しない。

で、俺という男子が一番恐れるのは、自分の思想が格好悪くて役に立たないと思われることだ。
だからこそ安易な思いつき、薄い経験則による断定、周囲に流されたひよった意見を、真剣な考えの場ではなるべく避けようとしてきた。(ここまでは「またか」と思われそうなぐらい、いつもと同じ発想。)

避ける最良の手段は、学問的になることだ。手っ取り早いのは多くの本を読むことで、色んな思想に触れていく中で説得力のある自らの思想が形作られ、ベースとなる知識が積みあがる。
俺の学問に対する考えは、こう少し宗教的な面があるかもしれないと自覚している。
(まるで学問のことを「神」のように扱っているから。)


さて、前置きが長くなったが、そういう考えを持っていた俺だが高校課程の「倫理」をまともにやったのは最近だった。
初めて、きちんとした思想の体系に初歩から触れたわけである。

そこで知ったことを一つあげる。

●案外、哲学者も自由な発想をしている。


何故かというと哲学者ごとに全く違う用語がポンポンでてくるからだ。
ここでいう自由とは、「お約束に縛られすぎていない」ことを指す。
カントという人が、人間の認識に対  する限界を発見した。そして彼は内面世界について考え、
それの律し方として「善意志」という概念を生み出し、道徳法則を説いた。
ヘーゲルという人はそれに対して内面的に完結しすぎているという批判を加えた。そして歴史の進展の背景に「絶対精神」というものを導入した。絶対精神とはズル賢い奴で、英雄を使って自由を拡大させる歴史を作っている。云々。
新たな用語ってのはつまり造語で、既存の言葉では説明しつくせないから哲学者オリジナルの言葉が編み出されるわけだ。だからそこでポンポンと発想の仕組みからして転換が起きてる。

勿論例にあげたカントやヘーゲルは尋常でない勉強家で、基本となる積み上げたものがあり全体像を捉えているからこそ、思うとおりに転換させることが出来るのだが、思想の門戸は広かったわけである。

それならば、俺の考え方も学問的なものから大きく外しているのではないのだろうと少し自信になった。
読書をし、知恵あるものから学ぶのが基本姿勢であることに変わらないにせよ、鵜呑みにするばかりである必要はなくかなり自由に亜流を発生させてもよいのだ。もちろん亜流が主流になるには、物凄い量の補強によって説得力をつけねばならないが。

俺の認識が変わったよーという単なる報告でした。
ただ、俺と同じ中高生ぐらいで何か信念とかを持つ人はきっと沢山いるけれど、その人たちに向けた言葉。
何だかんだ言って思想って飽和状態にあると思うので、すごく斬新なことを思いついた気になっても、偉い学者がそれを何十倍も発展させた体系をすでに作り上げてるはず。
そこから謙虚に学び取れたら、自分の考え方が物凄いスピードで発展して、終には別ベクトルでその大家をも追い抜いたりしうるんじゃないだろうか。
自分オンリーの思想ってけっこう行き詰る気がする、と経験則からのアドバイスを送る。
posted by 熊りん at 02:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。