2010年09月30日

(2)リアル・リアル・リアル 村上春樹を嫌いな理由。

前回の記事の捕捉というか続きというか。本当はこっちを先に書いたので、前回とかぶってる部分はいくつかある。
この記事特有の目的はひとつ。俺が、村上春樹を嫌いな理由を伝えること。


彼はガザ地区にイスラエル軍が攻め入り、多数の死者を出しているときにイスラエル主催の文学賞を受賞した。そしてわざわざイスラエルまで出向いて、こんなスピーチを行った。
卵と壁
「 考えた末に、僕は来ることに決めました。たいていの小説家と同じように、僕もまた、人から言われたのと正反対のことをするのが好きなんです。やれやれ、これは小説家としての性みたいなものですね。小説家というのは、自分の目で見て、自分の手で触れたものしか信じることができないんです。だから僕は、自分の目で見ることを選びました。黙っているよりも、ここへ来て話すことを選びました。」


誤解を除くために出来れば彼のスピーチ全文を読んでもらいたい。ただ俺がはっきり言える一つのことがある。
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こうして想像を絶する痛みとそれに対する悔しさと恨みの中で傷つきあるいは死んでいった人たちは圧倒的なリアルだ、ということだ。

村上春樹が、どれだけそれっぽいことを言おうと構わない。彼はしゃれていると思う。それについて、こうして、戦争から離れた人間達が好き勝手アカデミックに・低俗的に評してみるのも構わない。全然間違ったことをドヤ顔で語ってみるのも構わない。
ただし2008年のガザ紛争で死んでいった人たちはそれっぽいことでもなんでもなくて圧倒的なリアルだ。
洒落た言い回しでどうにもならない、ブンガクすることなんて出来ない痛みを彼らは味わった。

つづく

我々日本人は、いまのところ、日常にドラスティックな死を見ることがほとんどない。だから目が曇りがちだ。これは民族的なハンディにもなりうるぐらいだと思っている。

何故ならそれゆえに我々は戦争とかについて机の上だけで語りうるんだから。語る際、脳裏にホンモノからくる恐怖を想起させずに語れちゃうんだから。
まあ、村上春樹氏の読者層は「都会の青少年」だ。イノセントで中身のない悩みに走る青少年だ。だから村上春樹氏がそういう人たちに語りかけるのを前提にあんな、それっぽいだけの、中身のない、つまりそれを基に何かを生むことのない言葉を、リアルを前にして吐けるのだろう。
ただグレネード弾や崩壊する住宅を前にして、現地の人に伝える際には全く情報にならない言葉だと思うよ。彼らは救いしか求めていないだろうし、村上春樹氏の中のささやかな葛藤なんてどうでもいいだろう。そうした恥に満ちたことを、権威のある人間が権威を前にして平然とドヤ顔で行うことに嫌悪する。
もっと言うとそういう彼を取り巻いて高尚に何か解釈をぶつけ合って悦に入る人間も軽蔑する。



かくいう俺だって都会の青少年で、自分の受験のこととか、恋愛だとか人付き合いだとか主に悩みはその辺で(Yuiの「Gloria」とかで尽されちゃうような、ね。)、生きる死ぬを知らないイノセントなバカで愚鈍だ。ただ、知らないのを恥じて、そして生きる死ぬをイメージしようとしている。
端的に言うと前回挙げたチベットで拷問を受け死んでいった人たちやガザ地区の犠牲者、七色の川や中国の人民解放軍が武装している画像が恐怖に結びつく。それは漠然とした不安なんかではなくて、すぐ目の前にあるかのように冷や汗をかかせる。
これ、病気だったら誰か教えてくださいね。でもそうした危機感は絶対に必要だと思う。
そうした生の感情なしに趣味で政治っぽいことを語る人には、媒体としての価値しかない、というのが自分の中の最も急進的な意見だ。その人の情報には価値を見出すけれど、
自分ごととして扱えない人間の中庸でもなんでもない言説は論ずるにも値しない。

重ねて言うけれど、俺は自分自身もそういう半端ゆえに無価値を繰り返す者だと見なしている。
分かってないのにそれっぽいこと書くことが多々あるもん。それでも雰囲気に乗ってさえすれば自分がそういう過ちを犯していることにすら気づきにくい。
そういう静かなハザードが確実に存在している。これって致命的な共同体だと思う。


ただ一点においてのみ、中学1年生のときに七色の川の画像を見てから変わっていない自分のスタンスがある。
いまは平和だが、それについて何ら確約されたものはない。痛みなどの非人道的で耐えがたい感覚が肉薄したところにある。それから目を逸らしてもいけないし、グロテスクなものに触るがごときおぞましいことであっても触れつづけなければならない。

だから、勉強が出来て優秀なのにちゃらんぽらんな人とか本当に嫌いだった。
そういう人は、肉薄した恐怖と現実とを繋ぎうるものをわざわざ無価値化している。

嫌いなものは数多く挙げてきたけれど、最たるものを挙げましょう。
普段はちゃらんぽらんにしていて、くだらないこと、ひねたこと、世相を論った言葉で茶化していながら、
多くの人が意見を寄せ形ばかりでも憤怒や悲しみを共感していくニュースなどを見た際、
颯爽とそれっぽい意見を吐く人。
そういう人は、本当に要らない。
自分より優秀な人を批判するとどうも卑屈になりがちだからせめてその優秀とされる人は上回りたいのだが、とりあえず現時点で優れているが要らない人への俺の態度は、情報として処理すること。
その人は主体的なことを何も出来ないのだから、その人の価値はその中に詰まっている聞き伝えられたデータしかない。それを絞りとって有用なものに変えていくことが、自分に出来ることだと信じる。
そうした価値観を導入することは同時に自分がそうして情報としてしか見なされなくなりうる危険性も責任として背負うということだ。

話が色々とずれたが、そういうわけで俺は村上春樹が嫌い。村上春樹みたいな人も嫌い。
posted by 熊りん at 19:37| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
よくぞ言ってくれました。
私はその昔{羊をめぐる冒険}を読んだきりですが、彼の歴史観、地球上の人間を含めた全ての生物に対するお坊ちゃま感覚からの脳天気かつ無責任な感覚にウソつけと思い、かつ他人の痛みはいくらでも我慢が出来る奴特有の臭いを嗅ぎました。
彼がジャズ関係の店を閉店してから、その店のスタッフを引き取り私の店で働いてもらいましたが、その感覚は私にとり、不動のものになりました。
前記の小説?以後彼の作品?は読んでおりません。
なぜなら、一人の小説家のテーマは一つしかないと考えているからです。シチュエーションが変わっても、その本質は変わらず、バリエーションの展示でしかないと考えています。
作家の立脚点が本物であるなら、読者の誰もが心の中の一部で共感でき、その部分で評価できます。

私にとり、共感できる部分の全く無い希有の存在が、氏のブンガクであると残念ながら思わざるを得ません。

結論として私は、村上春樹氏の文章は読むに値しないものと考えております。

脳辺流ブンガク商?ワハハ、程度の低い冗談でしょう。
Posted by 遠藤郁彦 at 2012年10月20日 21:16
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