2010年09月13日

振り返ってみようか(1)学校の差異

中学・高校とやってきた水泳を通しての人付き合いは「進学校のうち」と「そのほかの強豪」という構図の元で語れる。
先生同士のつながりが深いこともあり、同じ都道府県として合宿を組んだり大会で応援しあう機会が多々あって自然と学校間の交流は多い(カップルなんかも沢山できる)が、練習の合間に勉強したりするうちの学校だけは変に浮いた。
各校それぞれカラーが違うもんだけど、うちだけどうにも調和できないというか。それに対してのこちらの対応は、全く交流を諦めて観察に徹し隅っこに固まる(多数)か、うちの学校の価値観を全否定し他校に混じるかに割れた(少数)。
俺の姿勢は中間で、別にうちのやり方を変えなくとも交流できると信じて勉強したりマイペースを保ちつつ仲良くやろうとした。郷に入っては郷に従え、なんだけど、服従する必要はない。
例えば最後の国体合宿なんかが8月序盤と終盤にあった。その休憩時間に受験生の俺が勉強するのはごく自然なことだし、無理してトランプ遊びに興じるのは不必要に我を殺すことだ。

たびたび言ってきていることだが俺は意見の違う人間と分かり合いたい。全てを相対的にして多様性を受け入れたい。だからちやほやすんなとか自虐風自慢すんなと主張している。尊敬でなくちやほやするとありのままの相手が見えなくなる。自虐風自慢はありのままの自分を見えなくする。

さて、俺は、言語とか人種が違う奴とだって出来ればなんとか話し合いたいと思うんだから、学校の差異とかいうちっぽけなもので躓くわけにはいかない。
ゆえに「あいつらは水泳バカだから」「お前の学校は勉強だけしとけばいいねん」というバイアスありきのボヤキは非常にストレスだった。
相対化された世界の中で皮肉ったり愚痴りあうのはいい。例えば「五体不満足」の乙武洋匡さんは、自分の障害をたまに自虐ネタにする。(出馬する政党は立ち上がれ日本?と聞かれて)「立ち上がる足がない」と言ったり。それは、彼は自分の障害が「純粋な感覚」から判断して目立つのを理解していて、みんなが何もそれに突っ込んだりネタにしないほうがおかしい、と思っているからだ。(たぶん。違ったらごめんなさい) 相対的とは、そういうことだと俺は理解している。(たぶん。違ったらアドバイスください)


とりあえず、今回は具体的な話がしたいので進める。

尊敬するうちの先生からたびたび言われ、深く刻まれている言葉がある。「お前らは勉強はできるかもしれないけど、人間性は他校に大敗している。やつらの礼儀を見習え」一理ある。うちの部員には声が張れない奴も多くいて、運動部の意味ないじゃん!と多々感じる。先輩後輩の上下関係が緩いのはいいけれど、〆る部分を〆れてないやつもいる。「相対的」に見てそうだ。
ただ、他校がそれを出来ているかというと疑問が残る。

印象的な事件がある。中1の冬時分はじめて合同合宿を我が校で行った際、組んだ相手校は非常に気合に満ちていて、挨拶も凄いし練習中の声だしもしっかりしていた。集合の30分前には整列が完了している状態で、流石、と思ったものだ。だが最終日が終わって貸していた更衣室を確認すると、
溢れかえったゴミ箱の上にゴミが散らばり、ジュースまでこぼれていた。
何か憧れに裏切られたような気分になりながら、「何だ。こいつらは、勉強できなくったって人間的に強い奴だと思っていたけれど、教えられたことしか出来ないんだ。整列しなけりゃ先生や上級生にどやされる。声を出さなきゃ逆に浮く。だから出来ているだけで、そうじゃないことは当たり前のようにこれっぽっちも出来ないんだ。」と深く思った。

今回の俺の話は、その時決定的な「ちがい」を感じて以来の、5年越しの決着を迎えるテーマである。
ぜひとも読んでもらいたいから一旦ここで切る。長くなりそうだ。
posted by 熊りん at 01:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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