2010年07月02日

ちやほや文化はどこへゆく

「世界で一番おひめさま
そういう扱い心得てよね」 (「ワールドイズマイン」より初音ミク)


「女は戦利品だ」(村上龍「すべての男は消耗品である」より)


異性をちやほやするのは浅ましくて嫌だ。浅ましさが見えてしまうから、されるのも嫌だという女性もいる。だが現代にはちやほやを前提とした社会・ちやほや文化が存在する。
これは何なのか。どう接すればいいのか。
私怨も入りまくりそうなこの話をどこから論じようか逡巡していたが最も卑近な話から始めようと思う。

隣の席の友人が恋をわずらっている。
詳細は彼の名誉にかけて話せないが、話せる部分だけをかいつまむと、彼氏のいる女性の、沢山の男性にちやほやされたいという気まぐれに振り回されているのだ。
俺はそういう性質の持ち主には激しく軽蔑していたのだが、ある機会があってその女性はいわゆる「どうしようもないギャル」ではないことを知った。尊敬にすら足る人物だったのである。
だが裏を返せばそんな人ですら部分的に汚いものに変えるちやほや文化は相当なテーマである。そう思ったことが今回の記事のモチベーションになった。

本当は女が、とか男が、とか安直に書きたくはない。女権主義は嫌いだがたぶん俺はフェミニストである。
だから女性の前で「女は」なんて絶対にいえないし、仲良くなった人ともあんまり下ネタは言い合えないだろうと思う。
今までこの手の論説は思いつくことはあっても書くのを控えてきた。ここに至っても実は緊張している。

さて、ちやほやをすることは対等な関係を捨てることであるという前提を置きたい。そして更にこの前提が真であるとするなら、これは旧世代的な男尊女卑の思想に結びついていると思うのだ。
村上龍は自著「すべての男は消耗品である」において、女性とは競い合って倒した先に男性が手に入れるものだ、と論じている。そうしてその価値は若さや容姿におかれると。完全な男尊女卑である。女性に人格を認めていないのだから。
だがこの発想は3toheiさんが「にげだめ(4)労働少女と父=宮崎監督」で論じているとおり、実はジブリ映画の根底にも通じる話だったりする。
冒険する少年が困難を乗り越え、格好良さを示し、そのご褒美に可愛い女の子を"ゲット"する。(だが宮崎監督自体もフェミニストでもあるため少女に人格を与え……という話を3toheiさんは論じられているのでぜひ読んでほしい。)
現代のジェンダー教育を受けて、"ゲット"するよりも対等の友達でいたいと考える草食系男子が周りにそれなりにいる自分からするとこんな話は大っぴらに出来ないだろう、とか思う。
まず第一に、女性はそれでいいのか?という疑問が素直にくる。

古文などを引くと、「女卑」の側にされてきた女性たちはことごとく逞しい。源氏物語を読む限り、大和撫子とは文句も言わない健気な女性像ではなく、巧妙さと時には質実さもかね揃えた気丈な存在であるように見られる。
女性の立場は低かったが、けして精神性は無碍にされてはきていなかった。だからこそ、女性はその立場を前提とした文化―それは政治力などの男性の力とは真正面から対立するものではなく、うまくつけこむ形である―を発達させた。ちやほや文化もその亜流である。
亜流ではあるが、大和撫子の高貴さを失った文化ともいえよう。村上龍がいう「戦利品」としての自分の価値だけを際立たせているのだ。

「男なんてみんなエロいだけ。もう信じない」的なぼやきをよくよく聞くが、どうしようもないギャルがそれを言ったってそれは自業自得でしかない。
「男」と積み上げるべき精神性の部分は捨てて、セクシャルな部分こそが自分の売りだと全面的に打ち出したら、そりゃあそういう男性しか集まってこないんじゃないか。
そうして集まった男性の中で、よりかっこよく、よりうまくちやほやできる人間が一番近づき獲得できる。ほかは取り巻きにならざるを得ない。取り巻きにも相応のポジションがあり、「役得」も発生しうるから、
プライドを失わない形でちやほやの奉仕は様を変えつつ続く。優越感を与えられた側は味を占め、この文化は嫉妬という内紛を含みつつ拡大する。
これがちやほや文化の全容ではないだろうか。
初めからそれしかするつもりのない人間と、最初の例のように異性が絡むと高貴さすら失ってどっぷり嵌る人間。これは男女問わず存在してしまっている気がする。
ただ一つはっきりさせておきたいが、悪いのは男性でも女性でもなく文化そのものだ。文化の担い手は常民だというが、しかし誰だってちやほやされたいと思うものだし、役得したいと俺だって思う。
それらが噛み合いやすすぎる土壌こそが敵なのだ。誰かが始めた文化ではあるが、それの元をたどっていくのは卵が先か鶏が先かという話でしかない。

いつものように手前味噌な話になるが俺はちやほや文化の土俵からは降りた人間である。情けないことに格好良さとかセンスといった面で自分には無理だと思って勝ち目のないレースをやめたのが一つ。
そして仮にレースを勝ち抜いても、俺の心配性な性格上、ずっと疑い続けていただろう。「俺が気を抜いてちやほやを怠ればすぐに誰かに逆転されてしまうんじゃないか」それはしんどそうだから、というのが二つ目の理由だ。
そうは言うものの、容姿の格好良さを評価外にしろというのは負け惜しみでしかなく、自らの雰囲気をコーディネートしていく努力をしている人は常にリスペクトする。
その姿勢がただちにセクシャルなことに繋がりすぎるのが浅ましい、とがっかりするのだ。
ちやほや文化がヒエラルキーの頂点にあり絶対的な価値をもつ時代―たとえばバブルなどがそうであろうか。アッシーくんやメッシーくんといった取り巻き、三高という男性に課されるハードル、乗りそびれたオタに許されたのは暗い文化だけだった―を生きていたならば相当しんどかっただろう。しかしちやほや文化は現在スタンダードではない。

対抗しうる概念は、名づけて尊敬文化である。そこには獲得や、優越感や奉仕といったものがない。
あまりにも臭いことをいってしまうが、セクシャルなことがなくても互いを認め合える文化。
それを目指す人々が増え、スタンダードになればきっと素敵だと思う。
俺には恋愛というものがまだはっきりと捉えられないのだが、尊敬文化が基本になると恋愛は発生しうるのか?という疑問は残る。
据え膳食わぬ草食男子、とかいう言葉も、やはり男尊女卑が残るけれどどうしたものかという感慨を得る。
だが「パートナー」という言葉のイメージはどちらかというとちやほやよりは尊敬の比重が大きそうである。

尊敬文化、あるいはよりよい文化が発達し、ちやほやを是とする文化は願わくば我々1人1人が見捨てていければ、という願望を抱いている。


(※いつも以上に無礼な話を展開させてしまったかも知れない。ヘイトするために極端に模式化したちやほやの実態は本当はそうじゃない、これは偏見だ、という意見があったらぜひとも聞かせて欲しい。)
posted by 熊りん at 00:14| Comment(0) | 厨2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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