2010年09月13日

振り返ってみようか(2)教育!

(つづき)

さてそれ以来、俺は前述の先生の言葉を次のように解釈するようになった。
@「奴らですら出来ていないことを出来るようになり、その上で勉強もしてやる。奴らより2段上の人間になってやる」
A「中身が伴ってなくったって、外見で取り繕えば褒められるぐらいになるのか」
中学生の頃なんて相対的とかどうとかなくてコンプレックスと見栄の塊だから、とりあえず見渡す限りの人に差をつけたくて精一杯で、そのように決意めいていた。

こうも思った。これはごくごく最近でも考えているテーマだ。「どうして勉強をするやつだけが『勉強だけではだめ』と抑圧されるのか。ほかの一芸に秀でたやつはそれで充分、と賞賛されるのに。」つまりこの国の勉強への差別意識に多少辟易とした。
勉強ができる人/勉強をする人に対しては、自動的に他の責任も過大に押し付けられている気がする。
合宿にぼく分数のかけ算できないけどバイク好きで将来バイク屋になりたいですっていう友達がいて、俺もそいつはそれでいいと思うんんだけど、例えば俺とそいつとではミスをしたときの叱られ方が違う。「お前、勉強だけできてもいかんのだぞ」と必ず俺にはつく。みみっちいことだけどさ。

そりゃ、勉強もできて人間性にも優れる、全人教育的になるべきではある。もちろん俺はどちらも達成しようとしたい。一人分の人生という限られたチャンスの中で、他者に自信をもてるアイデンティティーを身につけるにはこの道を進むしかないと思ったから。
ただそのプレッシャーのかけられ方が、大人からのものも同年代からのものも他と比べて大きすぎる。
それが出来ない人だっているでしょう。勉強だけできる人もいる。望ましくはないけどある程度しょうがない。友達のバイク乗りが分数のかけ算できない程度にはしょうがない。そいつも褒めてやればいいのに。
俺は社会のそういうところが相対的じゃないと思う。


勉強のよくできる人があまり自信を持てない理由(つまり自虐風自慢を多くする・勉強してないアピールをする理由)は、より賢い人ほど自らの無知さに気づき、また社会問題等が簡単に断言できるほど単純でないことを知っていて自信をもった意見が出来ないから、という一般的な側面と、勉強できることがカッコイイに結びつかない風潮があるからだ。高校生クイズとかもっと評価されてもいい。
それは、勉強だけを別扱いにするそのような風潮が原因なわけだ。
教育の問題もあるのかもしれない。数々の評論でなされているように、今日のシステムに学校の教育の実情はあっていない。具体的には東大京大に行ったからといって出世が保証されてたりしない。
だからその「正しくなくなりつつあるルート」に忠実な者があまり評価されないのは当然なのかもしれないが、少なくとも己より学力の高い人間を見ている限り彼らには豊富な知恵があり、それは将来的に社会に生かされなくてはならないと思う。
当然ながら「勉強する側」にも問題はある。前回で述べたウチの学校のような態度(交流を諦めて殻に篭る)は差別を助長するし、去年高校生クイズ見てても思ったけれど、分かりやすい言葉を強いられるのはある意味賢い人の義務だ。難しい言葉ばかりを展開したら理解されないのはこれは諦めるべきで、そこに気づけてないと浮いてしまうのは宿命だ。

こんなに偉そうに言う俺は一握りの天才というほどの学力の持ち主でもないけど、「相対的に見て」それなりの進学校に通っているという生い立ちの事実と、他校との差異に振れた経験とでそういう結論を下せる。

今回はいつになく抽象的な部分もなるべく噛み砕いて本音でぶちまけてるから俺の器の小ささとかも見えるだろうけど、とりあえず核心に迫る。
俺はそう考えつつ、自身の生活態度がひどいから「お前が言うな」と自分に言ったりして悪戦苦闘しつつ過ごしてきて、そして最後の国体チームに参加した。
(またつづく。)
posted by 熊りん at 01:32| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

振り返ってみようか(1)学校の差異

中学・高校とやってきた水泳を通しての人付き合いは「進学校のうち」と「そのほかの強豪」という構図の元で語れる。
先生同士のつながりが深いこともあり、同じ都道府県として合宿を組んだり大会で応援しあう機会が多々あって自然と学校間の交流は多い(カップルなんかも沢山できる)が、練習の合間に勉強したりするうちの学校だけは変に浮いた。
各校それぞれカラーが違うもんだけど、うちだけどうにも調和できないというか。それに対してのこちらの対応は、全く交流を諦めて観察に徹し隅っこに固まる(多数)か、うちの学校の価値観を全否定し他校に混じるかに割れた(少数)。
俺の姿勢は中間で、別にうちのやり方を変えなくとも交流できると信じて勉強したりマイペースを保ちつつ仲良くやろうとした。郷に入っては郷に従え、なんだけど、服従する必要はない。
例えば最後の国体合宿なんかが8月序盤と終盤にあった。その休憩時間に受験生の俺が勉強するのはごく自然なことだし、無理してトランプ遊びに興じるのは不必要に我を殺すことだ。

たびたび言ってきていることだが俺は意見の違う人間と分かり合いたい。全てを相対的にして多様性を受け入れたい。だからちやほやすんなとか自虐風自慢すんなと主張している。尊敬でなくちやほやするとありのままの相手が見えなくなる。自虐風自慢はありのままの自分を見えなくする。

さて、俺は、言語とか人種が違う奴とだって出来ればなんとか話し合いたいと思うんだから、学校の差異とかいうちっぽけなもので躓くわけにはいかない。
ゆえに「あいつらは水泳バカだから」「お前の学校は勉強だけしとけばいいねん」というバイアスありきのボヤキは非常にストレスだった。
相対化された世界の中で皮肉ったり愚痴りあうのはいい。例えば「五体不満足」の乙武洋匡さんは、自分の障害をたまに自虐ネタにする。(出馬する政党は立ち上がれ日本?と聞かれて)「立ち上がる足がない」と言ったり。それは、彼は自分の障害が「純粋な感覚」から判断して目立つのを理解していて、みんなが何もそれに突っ込んだりネタにしないほうがおかしい、と思っているからだ。(たぶん。違ったらごめんなさい) 相対的とは、そういうことだと俺は理解している。(たぶん。違ったらアドバイスください)


とりあえず、今回は具体的な話がしたいので進める。

尊敬するうちの先生からたびたび言われ、深く刻まれている言葉がある。「お前らは勉強はできるかもしれないけど、人間性は他校に大敗している。やつらの礼儀を見習え」一理ある。うちの部員には声が張れない奴も多くいて、運動部の意味ないじゃん!と多々感じる。先輩後輩の上下関係が緩いのはいいけれど、〆る部分を〆れてないやつもいる。「相対的」に見てそうだ。
ただ、他校がそれを出来ているかというと疑問が残る。

印象的な事件がある。中1の冬時分はじめて合同合宿を我が校で行った際、組んだ相手校は非常に気合に満ちていて、挨拶も凄いし練習中の声だしもしっかりしていた。集合の30分前には整列が完了している状態で、流石、と思ったものだ。だが最終日が終わって貸していた更衣室を確認すると、
溢れかえったゴミ箱の上にゴミが散らばり、ジュースまでこぼれていた。
何か憧れに裏切られたような気分になりながら、「何だ。こいつらは、勉強できなくったって人間的に強い奴だと思っていたけれど、教えられたことしか出来ないんだ。整列しなけりゃ先生や上級生にどやされる。声を出さなきゃ逆に浮く。だから出来ているだけで、そうじゃないことは当たり前のようにこれっぽっちも出来ないんだ。」と深く思った。

今回の俺の話は、その時決定的な「ちがい」を感じて以来の、5年越しの決着を迎えるテーマである。
ぜひとも読んでもらいたいから一旦ここで切る。長くなりそうだ。
posted by 熊りん at 01:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。