2010年09月14日

閑話

ツイッターに呟くのを自主規制したからこうやってここでぼやくのも多くなるかも。


「決勝行けなかったゆえ」の膿をここ2日痛感する。
やりきれた達成感とでた成績の悔しさのギャップかもしれない。
自分のレースでは泣かなくて表彰台に登った友人の雄姿に号泣したのは、架空の同一視かもしれない。

この胸のきりきりする感じは、当分はストイックに学習するモチベーションになるだろう。
大学に入ってからは、また泳ぎたいと思う再起になるか他のほうへ向くか。

こうした、寂寥感も俺の原動力・エネルギーのひとつの形ではあるのだな。
posted by 熊りん at 18:32| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月13日

振り返ってみようか(2)教育!

(つづき)

さてそれ以来、俺は前述の先生の言葉を次のように解釈するようになった。
@「奴らですら出来ていないことを出来るようになり、その上で勉強もしてやる。奴らより2段上の人間になってやる」
A「中身が伴ってなくったって、外見で取り繕えば褒められるぐらいになるのか」
中学生の頃なんて相対的とかどうとかなくてコンプレックスと見栄の塊だから、とりあえず見渡す限りの人に差をつけたくて精一杯で、そのように決意めいていた。

こうも思った。これはごくごく最近でも考えているテーマだ。「どうして勉強をするやつだけが『勉強だけではだめ』と抑圧されるのか。ほかの一芸に秀でたやつはそれで充分、と賞賛されるのに。」つまりこの国の勉強への差別意識に多少辟易とした。
勉強ができる人/勉強をする人に対しては、自動的に他の責任も過大に押し付けられている気がする。
合宿にぼく分数のかけ算できないけどバイク好きで将来バイク屋になりたいですっていう友達がいて、俺もそいつはそれでいいと思うんんだけど、例えば俺とそいつとではミスをしたときの叱られ方が違う。「お前、勉強だけできてもいかんのだぞ」と必ず俺にはつく。みみっちいことだけどさ。

そりゃ、勉強もできて人間性にも優れる、全人教育的になるべきではある。もちろん俺はどちらも達成しようとしたい。一人分の人生という限られたチャンスの中で、他者に自信をもてるアイデンティティーを身につけるにはこの道を進むしかないと思ったから。
ただそのプレッシャーのかけられ方が、大人からのものも同年代からのものも他と比べて大きすぎる。
それが出来ない人だっているでしょう。勉強だけできる人もいる。望ましくはないけどある程度しょうがない。友達のバイク乗りが分数のかけ算できない程度にはしょうがない。そいつも褒めてやればいいのに。
俺は社会のそういうところが相対的じゃないと思う。


勉強のよくできる人があまり自信を持てない理由(つまり自虐風自慢を多くする・勉強してないアピールをする理由)は、より賢い人ほど自らの無知さに気づき、また社会問題等が簡単に断言できるほど単純でないことを知っていて自信をもった意見が出来ないから、という一般的な側面と、勉強できることがカッコイイに結びつかない風潮があるからだ。高校生クイズとかもっと評価されてもいい。
それは、勉強だけを別扱いにするそのような風潮が原因なわけだ。
教育の問題もあるのかもしれない。数々の評論でなされているように、今日のシステムに学校の教育の実情はあっていない。具体的には東大京大に行ったからといって出世が保証されてたりしない。
だからその「正しくなくなりつつあるルート」に忠実な者があまり評価されないのは当然なのかもしれないが、少なくとも己より学力の高い人間を見ている限り彼らには豊富な知恵があり、それは将来的に社会に生かされなくてはならないと思う。
当然ながら「勉強する側」にも問題はある。前回で述べたウチの学校のような態度(交流を諦めて殻に篭る)は差別を助長するし、去年高校生クイズ見てても思ったけれど、分かりやすい言葉を強いられるのはある意味賢い人の義務だ。難しい言葉ばかりを展開したら理解されないのはこれは諦めるべきで、そこに気づけてないと浮いてしまうのは宿命だ。

こんなに偉そうに言う俺は一握りの天才というほどの学力の持ち主でもないけど、「相対的に見て」それなりの進学校に通っているという生い立ちの事実と、他校との差異に振れた経験とでそういう結論を下せる。

今回はいつになく抽象的な部分もなるべく噛み砕いて本音でぶちまけてるから俺の器の小ささとかも見えるだろうけど、とりあえず核心に迫る。
俺はそう考えつつ、自身の生活態度がひどいから「お前が言うな」と自分に言ったりして悪戦苦闘しつつ過ごしてきて、そして最後の国体チームに参加した。
(またつづく。)
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振り返ってみようか(1)学校の差異

中学・高校とやってきた水泳を通しての人付き合いは「進学校のうち」と「そのほかの強豪」という構図の元で語れる。
先生同士のつながりが深いこともあり、同じ都道府県として合宿を組んだり大会で応援しあう機会が多々あって自然と学校間の交流は多い(カップルなんかも沢山できる)が、練習の合間に勉強したりするうちの学校だけは変に浮いた。
各校それぞれカラーが違うもんだけど、うちだけどうにも調和できないというか。それに対してのこちらの対応は、全く交流を諦めて観察に徹し隅っこに固まる(多数)か、うちの学校の価値観を全否定し他校に混じるかに割れた(少数)。
俺の姿勢は中間で、別にうちのやり方を変えなくとも交流できると信じて勉強したりマイペースを保ちつつ仲良くやろうとした。郷に入っては郷に従え、なんだけど、服従する必要はない。
例えば最後の国体合宿なんかが8月序盤と終盤にあった。その休憩時間に受験生の俺が勉強するのはごく自然なことだし、無理してトランプ遊びに興じるのは不必要に我を殺すことだ。

たびたび言ってきていることだが俺は意見の違う人間と分かり合いたい。全てを相対的にして多様性を受け入れたい。だからちやほやすんなとか自虐風自慢すんなと主張している。尊敬でなくちやほやするとありのままの相手が見えなくなる。自虐風自慢はありのままの自分を見えなくする。

さて、俺は、言語とか人種が違う奴とだって出来ればなんとか話し合いたいと思うんだから、学校の差異とかいうちっぽけなもので躓くわけにはいかない。
ゆえに「あいつらは水泳バカだから」「お前の学校は勉強だけしとけばいいねん」というバイアスありきのボヤキは非常にストレスだった。
相対化された世界の中で皮肉ったり愚痴りあうのはいい。例えば「五体不満足」の乙武洋匡さんは、自分の障害をたまに自虐ネタにする。(出馬する政党は立ち上がれ日本?と聞かれて)「立ち上がる足がない」と言ったり。それは、彼は自分の障害が「純粋な感覚」から判断して目立つのを理解していて、みんなが何もそれに突っ込んだりネタにしないほうがおかしい、と思っているからだ。(たぶん。違ったらごめんなさい) 相対的とは、そういうことだと俺は理解している。(たぶん。違ったらアドバイスください)


とりあえず、今回は具体的な話がしたいので進める。

尊敬するうちの先生からたびたび言われ、深く刻まれている言葉がある。「お前らは勉強はできるかもしれないけど、人間性は他校に大敗している。やつらの礼儀を見習え」一理ある。うちの部員には声が張れない奴も多くいて、運動部の意味ないじゃん!と多々感じる。先輩後輩の上下関係が緩いのはいいけれど、〆る部分を〆れてないやつもいる。「相対的」に見てそうだ。
ただ、他校がそれを出来ているかというと疑問が残る。

印象的な事件がある。中1の冬時分はじめて合同合宿を我が校で行った際、組んだ相手校は非常に気合に満ちていて、挨拶も凄いし練習中の声だしもしっかりしていた。集合の30分前には整列が完了している状態で、流石、と思ったものだ。だが最終日が終わって貸していた更衣室を確認すると、
溢れかえったゴミ箱の上にゴミが散らばり、ジュースまでこぼれていた。
何か憧れに裏切られたような気分になりながら、「何だ。こいつらは、勉強できなくったって人間的に強い奴だと思っていたけれど、教えられたことしか出来ないんだ。整列しなけりゃ先生や上級生にどやされる。声を出さなきゃ逆に浮く。だから出来ているだけで、そうじゃないことは当たり前のようにこれっぽっちも出来ないんだ。」と深く思った。

今回の俺の話は、その時決定的な「ちがい」を感じて以来の、5年越しの決着を迎えるテーマである。
ぜひとも読んでもらいたいから一旦ここで切る。長くなりそうだ。
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2010年09月11日

現況報告

生きています。部活は明日で引退。
引退して区切りがついてから再開しようかと初めは思っていたけれど、
そうすると大ざっぱに総括してしまいそうだ。「いろいろあったけど今は満足してる」とか。
その「いろいろ」の部分をリアルなうちに残しときたかったから敢えてこんな今書く。
久しぶりだから内容にまとまりがないのはお許しあれ。リハビリも兼ねている。
いつものように長々と、「現況報告」する。


全国大会で優勝して部活を締めくくる、という目標は失敗に終わった。決勝にも残れず。必ずしも思い通りになるわけじゃないんだなというのは今更な感想だが、上を目指して緊張を刻んで暮らし、様々な考えもそこから生めた水泳への取り組みに悔いはない。インターハイ前先生に言われた、「どういう結果だろうと、お前のやってきた取り組みは変わらないから結果がどうであれもう勝っている」という言葉が印象に残っている。
戦わなければ負けない。だが下らない。だから負けてもいいから戦おうとしてきた日々だったが、戦う前からもう勝ってる、と言われた時、陳腐化するどころか言いようのない満足感を知った。
届かなかった部分まで誇りを持って納得していけるはず。
まあ、でも、すぐこんなサバサバと割り切れたわけでもない。インハイ直後なんかは肉体的にも精神的にもみっともなく喚いていたし。
ただ納得しないながらも先には進めていた。一つの事実に全身全霊でへこたれ何もできなくなったりしない。
「止揚」という言葉があって、意味は「対立する事物の矛盾をそのまま保存しながら議論を闘わせて昇華させていくこと」。この「そのまま保存しながら」のイメージに近いかもしれない。これがもう少しうまくなると、1つ2つの失敗にめげないで思い切ってやれることが増えそう。
将棋とか強くなるかも。

いっぽう「自分語りをし尽くす」という、もう1つの夏のテーマみたいに据えてた方針はまるっきり果たせていない。
一番の理由はモチベーションであり、twitterを通して垂れ流していた故にわざわざまとめ直すインセンティブが弱くなった。
遠征などで落ち着いてしっかり書く時間がなかったのも一因だ。
だがそれらこそを綴るべきだとも思う。
俺個人の得られる経験は非常に限られたものだが、最大限に演繹していくことでどこへ出ていっても恥じない基盤ができるはず。
語るべき、論じるべき経験はたくさん積んだのに語彙や説明能力が追いつかない歯がゆさを感じる。

端から見れば芯の定まらない人のようかもしれない。
国体の代表チームに参加し、水泳以外には何も共通の認識を持たない人たちと仲良くなった。これまでの国体では最低限の絡みしかしてこなかったが、二歩ぐらい踏み込んで「仲良くなる」まで話したり示したりしてみた。

狭い文化観に苛立ちつつも、相手の立場をとりあえず尊重しながらコミュニケーションを重ねることができたし、対立するより多くのことを生んだ。
ただ、一貫した自己主張が出来なかった。1つ1つの場面において、自分の意思のYES/NOを判定することはできるが場当たり的だった。
しっかりとしたドグマがどこか不可視になっていて、不安になる。

部活引退後の余韻に流される前にこの不安はきちんと意識して残さなきゃなと決意して、このgdgdな現況報告に至った。
posted by 熊りん at 09:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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