2010年02月28日

政治家個人への崇拝は「不可能」 (政治について)

表現の自由に抵触する恐れのある条例が東京都議会で通過するやもしれない。

容姿が18歳以下のキャラクターが、性的であったり暴力的であることを喚起すると"判断"されるだけで規制されうるとか。
東京の話ではあるがまた何らかの行動はおこすかもしれない。今日は、この折にふれて政治家への関わり方についての意見を発表する。
(以下濃厚な政治の話)

上で引用したサイトは表現の自由に関するニュースを多く取り上げ、この議員は慎重派だとかあの党は基本的に賛成派だ、などという分類も行ってくれている。
その顔ぶれを見る限り、いわゆる保守派が推進して革新が反対しているという構図が伺える。
俺は「人権擁護法案」ならびに「永住外国人への参政権付与」も相当恐ろしいものだからと反対しているけれど、これは逆で革新が推し進め保守派が反対している。
さあ、どっちも嫌な俺はどうすればいいのだろうか?

思想的にいいとこどりをするわがままを言っているつもりはない。強権的な規制、権利の制限が怖いのだ。
「日本が滅ぶ〜」と顔を真っ赤にして騒ぎたてるつもりはないが外国人へ参政権を付与して地方の情勢が悪化した事例は外国に多くみられる。
生活を悪化させうる規制への不安」は政治への興味としては普通ではないだろうか?そこに保守も革新もない。
しかし現に日本の保守派は「保守的でないものを規制する」という動きにでて、革新派は「革新的な自由の拡大に伴う現行の負担増」を推進する。
俺にはどちらも「圧政」にうつってやまない。

一方ではこの上ない味方でありもう一方は最大の敵である議員というのを多くみてきた。具体的に言うと高市早苗議員や稲田朋美議員。
彼女らは対外的な脅威に対して敏感で、鋭い国会質問を浴びせてきたけれど同時に「彼女らの理想」のため様々な規制案を推進しようとしている。(児ポ法)とか。国会議員も、随分不完全な人間である。

だから、政治家個人を「崇拝」して、その人の掲げる政策全てを信奉することは危険きわまりない。どこかで「耐え難い我慢」を迫られる。よきもののための我慢ならいいものの、完全に誤って何の得にもならない我慢なこともある。
最たる例は独裁政権である。アドルフ・ヒトラーはアウトバーン(高速道路)とフォルクスワーゲン(国産自動車)によって失業問題を解決し、それが「彼をドイツの導き手だと信じる理由」となった。
しかしその後は誰もが知るとおりである。ヒトラーはほぼ全てのドイツ国民にとって一方では有益で、もう一方では害悪極まりなかった。
ならば、善政への望みは絶たれてしまうのか?否、ここで議会の意味が出てくる。
何のために日本だけで722人もの国会議員が存在するのか。それはいい部分をも足の引っ張り合いするリスクを賭してまで悪い部分に歯止めをかける、ベクトルをかけあわせて中庸を実現するためである。
当然、いまの民主党にまつわる報道をきいていてもその議員間での多数派をめぐる抗争はやまないが、それも中庸化の機能の一つである。
この議員1人1人の質が向上することで、はじき出される「中庸」の質も上がる。議員は対等に近しい技量を持つことが望ましいというのは俺の意見だが、
専門分野の差異などがよき乗数効果に現れることもあるので、これはしょうがないかもしれない。ただタレント議員やメダリスト議員は不要なのは間違いない。
「数稼ぎ」がいればいるほど中庸の質に悪影響するのはさらにもいわず。

ではよき議員とは何か。まず、@悪影響を及ぼさない人物であること、次にAよき影響を及ぼす人物であること。
上のようにそれらが混在している場合は「どちらがマシか」を議員の力関係なども汲んで判断する必要があるといえよう。

政治とはこの「よりマシなものを選ぶ発想」である。カレー味のうんことうんこの味のカレーというアレだ。

議会制は基本的にはそれに沿ったものだが、「リスクまで含めて独裁のほうがマシ」と判断されるときに捨てられうる。
だから有権者にとって政治家は契約した相手に過ぎず、うまく操るという意識を保たねばならない。番犬に首輪をつけておくことと些かも変わらない。間違っても「託す」なんて思ってはいけない。
(現行の日本ではそういう風なことを当然のようにしている人が多いが。)


posted by 熊りん at 15:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月27日

「死と再生」を使いたくなる。

長期的にブログをご覧になってる人ならきっと知っている、俺のドグマの一つ「死と再生」
久々に登場させるので定義をおさらい。
「もうほんまに耐えられへんねんけど」に類する破滅的な愚痴→周りの励まし→「一人じゃないって気づきました、これからも頑張っていこう♪」
という、根本的には何も解決していない一連の予定調和が「死と再生」

勿論ある程度はしょうがない。人は励ましあって生きているものだ。そして、相談をうけた第三者が必ずしも当人の置かれた状況全てを理解して、解決に向かわせるようなアドバイスを真摯に送ることも非常に難しい。「気持ちだけでも」というのは決して否定されることではない。
問題なのはその頻度と予定調和っぷりで、挨拶のような形式に昇華し、あまりに当然のように使われすぎること。
すると……今まで論じてきたような事態になり、何よりも俺はただただ不快になる。
「死にたい」とかが挨拶のように使われだすと本来の意味がぼやける。よくよく考えるとこれはとても怖い。

しかし何だかんだ言って俺の中にも構ってちゃんな部分が多く残っており、確認を求めすぎることがままある。これは直すべきところとして心に留めておこう。

そしてもう一つ。「死と再生」には、根本的な解決から目をそらしているという問題が横たわっている。(ゆえに何度もおこさざるを得ない)
本当に過ぎ去ってしまったことに対して我々は感傷を抱くことしかできない。
だが、人生において本当に「過ぎ去ってしまったこと」がいくつある?
集大成の大会とか、受験とか、恋愛とか。我々の失敗は主にその過程にある。
予選で躓いたとか、模試で失敗したとかフラれたとか。それらは「反省して、本番で失敗しないようにするための挫折」だ。対人関係もこれだと断言するとちょっと人格疑われるかもしれないけれど。
だから反省をしたほうがいい。そしてその反省はきっぱりしたものでなく、修正を自らが見守れるほどにゆっくり時間をかけたものであるべき。

俺は最近、水泳が不調だ。水と馴染めない。同時に勉強までちょっとおぼつかなくなって不安だ。だから恥ずかしいことに、mixiの日記で毎晩のごとく「不調の理由はこうだったんだ、よしこれで明日から頑張れる!」
といった類の「セルフ死と再生」を行っていた。そしてやっぱり不調は解消されないからこそ毎晩つづいた。
勉強はそりゃやるしかない(勉強法は確立してるから)けど、水泳なんかはフォームとか心構えとか、気にすべき点はいくつでもある。それらを十派一絡げにした「斬新な解決案」をゼロベースで出しまくっていても事態は今のところ好転していない。
俺はひとまず納得をするという癖に取りつかれている。それはそれでいいけれど、根本的な解決に向けて日をまたいだ思考もやっぱり必要なんだろうなと思い至る次第だ。

最後の問題点は……そうして納得できないものを幾日もかかえている間、どのように平静に近いテンションを維持するか、余計に気負うことがないようにするか、である。
posted by 熊りん at 23:12| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月26日

求められているのは初級者向けの技術論

30歳の保健体育」という、割かしどうしようもない本を某所でこの前立ち読みした。
ほとんどがちんkまんkの話で確かにタイトルからしてそうだよなと納得しつつ辟易した。
そしてアマゾンのレビューにもあるとおり、概ね付き合った後のことについてやっぱりちんkまんkの話ばっかりだから、そこまでたどり着いてない人には何の役にも立たない。

非モテの人たちに教えるべきなのは、「シャツinはやめよう」とか「デートのときは車道側に歩こう」などという初歩ではなく、
上記で論ったような中級でもなく、その中間に存在する技術論すなわち初級のハウツーである。
「取っ掛かり」でも「ワンランク上を目指すあなたへ」でもないその部分が体系化されてないからみんな壁を感じるんだ。
もちろん、そこらへんは多くの人が知らない間に/貴重な体験を経て/通過するものであることは間違いなかろう。何でもかんでもマニュアル化してたらキリがないという主張も理解できる。
だが、実際問題らくらくと通過できてないから「非モテ」なんじゃないか。自分がそうだから分かるぞ。(俺は昨日さまざまな葛藤を経て自らの状況を理解し、非モテに位置することを自覚するに至った。)

というわけで、シャツinせずには済むけど歩道側に立たせる女の子がいない人のための技術本のブームがぜひ来てください。(知ってるのあったら俺に教えてください)
初級に達していない人が「30歳からの保健体育」を読んでもただのリアルな妄想本にしかならない。それなら蛸壺屋の同人でも読んでおいてほしい。

自分のいま思いつく限りの「初級」なことを言うと、修飾語はなるべく分かりやすく使うべき、とか。難解な複文で会話相手に現代語訳を強いるのはやめよう。
当然のことのように思えるかもしれないが、会話中にやたら挿入句いれたり注釈つけたりする人は多くて、「嫌悪感」とまではいかないものの少ししんどさを感じることがよくある。
そこを気にすれば、長い話でも分かりやすく伝えられたりする。

流石にこのどうしようもない話で〆たら恥ずかしいので偉そうに帰納すると、情報過多の時代だとか言われていてもある段階が抜けていることは結構ある。
だから「みんなが同じ土俵に立つ」のはいくら情報過多であっても依然として難しいままだ。「これら幾らなんでも大丈夫だよね?」というステップを踏み外す人間はどうやったって一定数でてきてしまう。
posted by 熊りん at 19:24| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月18日

たとえ話できない

たとえ話っていうのは、ある物事を説明したいときに用いる、その物事の本質がより分かりやすく現れている話のこと。
だから一種の換言である。
俺はこの換言が大好きなのだが、同時にすごく苦手だ。うまく本質のより易しい類似を見つけきれず、一層難解になるのはまだいいほうで
悪いときには別の意味になってしまう。
(現代文の選択肢で合わせることはできても会話の途中で「分かりにくい」といわれたら、それはもう後者を絶対的に重視しなきゃならんだろう。)
いつか物語を書きたい、と確かもののけ姫を観たときの感想で吐いたが非常に難航しそうなのはそのためだ。

これは普遍的なことじゃない己の愚痴なんだが、別々の物事に同じ本質が宿ることってあるのかあ?
説明したい本質に忠実になろうとすると、浮世離れしたたとえ話になってしまう。
そんな俺の嫌いな言葉は「一事が万事」Fuck that.


ちなみにモノマネは好きで、ある程度得意なんじゃね?という密かな自負がある。
これはわざと本質がずれるのを覚悟で特徴を拾うやり方だ。そこまで俺にとって重要でない人間を記憶に留めておく際に多用する。
かつて、言い表しようのない特徴でただただ喋り続ける、という少女に出会ったとき俺はその人をモノマネできず狼狽した。
理解の前段階、認識をしておくことの出来ない相手というのは怖い。
俺にとってそういう「理解不能な相手」は何をされるか分からない恐怖の対象なので、
なるべくどんな人間も認識までは出来るようにしときたいと思ってる。
posted by 熊りん at 19:17| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月14日

無為徒食

今日は何もしない日だと決めていた。

こちらを覗いている人の過半はmixi入ってない人のはずなので最初から説明しておく。
先月末〜今月初頭は模試や大会が入り乱れ、モチベがMAXになっていた。にも関わらずぽろぽろと取りこぼし、一番の目標も達成されないで凪の時期に入ってしまった。
ジュニアオリンピックは3月末、駿台全国は6月。「自信の回復」を待望し雌伏する期間は些か長い。
大会の翌日にでもJOに向け鍛えなおすべきだというのに何となく腑抜け、再起するほどの刺激も外部からは当分ない。
希死年慮なるおこがましいものが首をもたげつつありどうしようかと思案して、今日は何もしない日にしようと決めた。
中学生時分の特に期末試験前の日曜なんかは「今日は10時間勉強しよう!」とか決意するも結局一日中PCの前にいることがザラで、
随分そんな無駄な時間を過ごしてきたものだと思っていた。しかし去年、毎日曜でかけざるを得ないような状況に置かれて初めて、
「あの無為さが平日の活力の源だったんだ」と気づいた。

それを実行してみたわけだ。
久しぶりに正午前に起きて、チーズ焼きも二回食べて、髪の毛のぼさぼさも放っておいてひたすらカタカタ。
己の体が臭くなってきている気がして辟易とするもわざとスルー。髪の毛きりに行くのもやめてその代わりほんの少しだけ散歩。
ずっとそんな風にぐだぐだしていたら、午後3時ごろエロいことしているころあいに鼻血が出た。
枯れきって、見るべきものもすべて見て流石にやることがなくなってきた時にメッセージの返事を書きはじめた。(そんな扱いの仕方してごめんなさい今回だけですorz)
そうするとじょじょにここ数日の気だるさが退いて、ヒロイックな気分が持ち上がりそうになったので自制した。
好きな音楽をありったけ聴いてるうちにエアロ・スミスの"Dream on"あたりで久しぶりにこっちの記事を書いてみたいという気持ちが次第に復活し始め、
「ニコニコ組曲」あたりで完全に覚醒した(原義で)。
そこで、今日一日のことをだらだらと全て書き綴ってみようと思ってここに至る。
サンホラの「侵略する者される者」あたりを聴いたら、1時間ぐらいゆっくり風呂に入って邪を落とそう。
しかる後にはいろいろと元に戻っているだろうという確信がある。


これは言うなればインスタント達観であり、1日完全にニートして賢者モードに何度も突入していれば、大概の人間は「明日は頑張ろう」とか思うに決まってる。
あんまり連続的な意味はないし、明日になればまた気落ちしている可能性も、今の時点でイメージしているということは大いにあり得るわけだけど、
肝心な活力を思い出せたので、明日以降はこんなに手間をかけずに着実に元に戻っていける気がする。
まあ、焦らずに行こうかと。
表現しにくいんだが、「俺の悩みなんてちっぽけなものだと気づきました」とか、そういう典型的な話ではない。あー、これは本当にまだ言葉にできないので後ほどにちゃんと文章にしようと思う。


昨日、古文と英語(長文)の問題集と「『勝負脳』の鍛え方」を注文した。
勉強のほう、英数国はこそこそ内職して知識詰め込むのを終えて実戦問題ガンガンやっていこうと思う。東大型の問題が〜とかいうのはまだもう少し先の話だけど。

では、風呂いってくる。
posted by 熊りん at 19:47| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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