2010年01月26日

ネット炎上

ネット炎上というものが真新しくなくなって久しい。
限定されたコミュニティや個人が「暴かれた」ときそれは発生する。塾講師が中学生を手篭めにしていたとか、日本の新聞の海外版にあることないことがかかれていたとか、未成年の飲酒の告白とか、
そういう自分の日常の一歩外の発覚が動力源。

前述した「毎日新聞海外版・Waiwai事件」(ぐぐって曇りなき眼で見極めろ)にて、BPOの役員が「ネット炎上に恐ろしさを感じる」などと放言していたが、俺は炎上とはある程度あってしかるべきだと思う。
もう少し言葉を選ぶと、どうしても必要な相手と、しちゃいけない相手が混在している。

炎上された側は、「なぜこんなに叩かれるのか分からない」という反応をよく示す。
飲酒ぐらい誰だってするし、大学生と中学生が付き合うこともそれほどおかしなことではなかろう。しかし規模が大きくなるほど、当事者の起こしたものの事件性は確かに大きいように思える。
それに全く気づかない、イノセントでいるのは、「内輪」にどっぷり浸かりすぎた証拠なのだ。感覚が麻痺しているのだ。
それが集団の宗教性だ。俺はこれをもう2年もぶっ叩き続けている。その「内輪」のルールに逆らうことをしたらお互い理解をする素地はないから最悪殺される。身体的にではなく、精神的に大多数での全力の否定・攻撃を下される。
だが所詮は内輪なのだ。全世界に通じる、普遍的なものではない。なぜなら、そんな風に普遍的になる努力をそんな集団は絶対にしないからだ。
狭くて小さな価値観の、その裾野の広さからある程度の人数を取り込み、サル山のボス化する構造こそ日本で最も醜く、最も多い忌むべきことだ。

炎上はそれを叩き壊す力を持っている。サル山よりも多数かつルサンチマンというエネルギーを確かに持っている。だから参加者は「なんだか正しいことをしている気がするし、しかも楽しい」というまさに「祭り」気分を味わうのだ。

ただしネットの力は、個人という単位に対しては圧倒的なパワーを持つし、前述のとおりある程度の集団も叩きつぶせるが、政治的には最弱だ。
だから結果的には「弱いものいじめ」に堕する。ケツ毛バーガーとか未だにやっている。そして本来あるべき姿にはなれない、えらい大人が「君たち、炎上というものの使い方を間違っているよ」などといっても効果がない現状では
総合的にみて炎上は悪であろう。しかしもう一ひねり、二ひねりのところまで来ていると思う。
炎上させる側は、「撃っていいのは撃たれる覚悟のあるやつだけだ」と気づきつつあるから個人たたきはそれほど伸びないし、
「これぐらいの、微笑ましい程度の違法性(飲酒とか援交)はごく普通のことなんだ」と経験を持って知りつつある。(民度としてどうなのよという話ではあるが。)
炎上の対象は企業や公的機関に向きはじめていることを見ると、これは炎上の構造が前進的だと言ってもけっして過言じゃないと思う。


結論。
些細な思い上がりを全力で叩くのは恐ろしい監視社会だが、「内輪」への自省を促す効果として、ネット炎上を完全に否定することはできない。
posted by 熊りん at 19:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月22日

容量の問題

twitterをやろうかなぁ、と。煩わしいことがほとんどないからね。
ただ、以下のような書き込みをみて思うところがあった。

ツイッターが流行りだしてから、ブログの更新が明らかに減ったサイトとかあるな。
どんどんシンプルで頭使わないでいいようなシステムが流行る傾向にあるから。

ツイッターの次に流行するものは、さらに頭を使わなくなるものになるだろうな。

ホームページ→ブログ→ミクシィ→ツイッター→?



少し前に気づいたことなんだけど、よほどの大事件がおこらない限り、俺の「一日に言いたいこと」みたいな量はほぼ決まってて、友達やら親と会話したりブログやmixiに書き綴ることで消費される。
ちなみにちゃんと消化しきれなかった日は脾肉をかこちモヤモヤが残存する。

問題は「量」であり「質」ではないという点が見過ごせない。極端に言うと、1日中バカ騒ぎをして満足した日はブログを書こうという気持ちがそんなに起こらない。
「中身のあるなし論争」から「ではブログはかっこつけでやっているのか論争」に持ち込めるけどそれはいつものパターンなので、ひとまず置いといて敷衍する。
中身は何であれ、とにかく1日にある量までを喋りたい。放っておいたらブログのような形式を無意識に選択するわけだけど、
別の形式からでも特に違和感はないし、「書くことそのものの達成感」はそれほど変わらない。(デコログだけは無理だけどね!)

とすると俺のような人間が、どんどん簡便化されるコミュニティの流れに乗っていくと思考の練り方などは着実に劣化する。
努力≠忍耐というのは持論だけど、それなりの負荷をかけることで鍛えられるというのは間違いない。
上の例の場合、それなりの検索スキルやセンスやらが必要な「ホームページ」と一瞬で登録して流れに乗ればいいtwitterとでは思考を出すための手間がぜんぜん違う。
わが身でいえば、このブログという形式ではそれなりに「見せる文章」を意識するから極端な話し言葉とかは使わないし、思いついたこともすぐには言わず多少こねくりまわしたり、前後と関連づけたりぐらいは俺でもやるわけだ。
だから多少なりとも考えを進めることができる。

演繹すると、俺に彼女ができてしかもその子とごちゃごちゃ語らう必要がなくて1日中にゃんにゃんすることになったら俺はきっと物凄くアホになる。そして怖いのは知らない間にそれで「満足してしまう」。


twitterやmixiも気軽に楽しむためのものだろうから、ここまで否定的に書いたり、危機感もったりするのはピントがずれているかもしれない。
ただこの話自体を具体例のようにして、「限られた容量の中で適度な質を求めることで最大値を目指す」という見解を導くのはそれほど的外れではないと思う。
posted by 熊りん at 11:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月20日

欧米コンプレックスを説明する

欧米コンプレックスもちの人間には大きくわけて二種類あるという前提から出発する。

@うわべを取り込んだだけの欧米コンプ

「レディファースト」とか「遠慮がない」という部分をピンポイントで真似る。
その習慣が成立した背景を知ろうとしない、イノセントな人間。
「都合のいい憧れ」とでも表現できる。
たいていは無批判で、単純にかっこいいから取り入れている。

A裏表まで理解した上での欧米コンプレックス

いいとこばかりじゃなくてその欠陥性や裏まで把握した上で実践される欧米コンプレックス。
村上龍や山田詠美などの作家がそう。

@とA は一緒くたに語られることが多いが全然ちがう。
ただしAが好ましいとか、そういうのではないというのが重要。

どこまで把握し、咀嚼してもアイデンティティーを完全に欧米化することは不可能だ。
聖書を研究する神学生のように西洋の謙虚な学徒となろうとも、
外見も土台も違う。だから滑稽になってしまう。
完全に西洋的な日本人を想像する。かっこいいかもしれないが、
致命的な物足りなさは拭えないはずだ。
周囲にも一人、いる。
ある意味その姿は悲劇だ。
存在をかけた努力や情熱が正鵠を射られないのはやはり悲劇だ。
@はあくまで、うちの妹のように、そんな背後なんかとは無関係な
【信仰】を行っているだけなのだ。

俺はAにはまりかけて焦っていた。
他の価値観の受容は、まるパクりでなく応用に止めるべきだ。
主体は自分(を構成してきたもの)とし、その座を他に譲ってはいけないと思う。

俺は他の価値観にぶつかる度に自己の輪郭を知れるということに気づいている。
傷つくかも、だけではなく溶けるかも、取り込まれるかも、という警戒は刻みながらも
ぶつかり続ける作業は続くだろう。
posted by 熊りん at 23:47| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月08日

4種類+1

「人間には○種類いる云々」という話はよく為されるが、人はそんな大雑把に分けられるものじゃないという俺の信念上、やるのを避けてきた。
だが5種類に分けてみると自分の人間関係が驚くほどすっきり整理できたのでここに記述してみる。万人に通じるものかはまだ分からない。


A 師匠

自分より遥かに格上で、小説の三人称のような存在。
「分かりあう」というより、一方的に分かってもらう。
母性であったり、崇拝といった観念に当てはまる。


B仲間

同じ土台を持ち、分かりあえる存在
安心感も一体感もあるし成長しあえるが、安心しきって関係がだらしないものとなる可能性もある。


Cライバル

同じ土台を持つのに対立する存在。
自分への強烈なモチベーションになるが、めったに見つからない。
ちなみに俺にはいない。


D敵

土台が違うから分かり合うことなんて出来ない。
反面教師にするしかない存在

そしてどれにも当てはまらない、5つ目たる余事象が「友達」である。

★「土台」とは何か。
その人を取り巻いてきた環境とか取り入れた知識によって構成される、基本姿勢。分かり合う可能性を作るもの。
土台が同じとはざっくり言えば「話の分かるヤツ」
勿論まったく同じ人間などはいない。
だが世の中、こみいった話をすればするほど通じない奴が多数存在する。こちらの言葉が汲み取ってもらえない。フィーリングで伝わる部分が非常に少ない。シンパシーを感じられない。
つまり、会話に対する姿勢がぜんぜんちがう。
そういった人間は土台が違うという。土台が違う人間は、よほど卓越した存在としてA 師匠にならない限り、敵か友達にしかなれない。

A 師匠というのは実はSM女王とかにも当てはまったりする。SM女王はM男のありのままの願望を理解し、それを全部与えたり全部奪い取ったりするわけだ。
M男はSM女王を理解することは一切ゆるされない。M男から何か要求があると、それは「エゴマゾ」という存在に堕する。

B 仲間C ライバルは非常に紙一重の存在。仲間というのは、話が分かる奴で、全力で表現したことが全力で返ってくる、そういったやり取りが出来るのが基準だと思う。
だから「物凄い一体感を感じる」ことが出来るし、土台を調整するための取り繕いがごく僅かですむから成長しあえる関係を築ける。
ライバルとは、そこまで同じでありながら対立をする関係。そのレベルの意見の相違は、野原ひろしの言うやう、「正義の反対はまた別の正義なんだよ」という域にあると思う。
実は俺にはライバルはいない。例えば同じ大学を目指す仲間はいる。しかしそいつに成績で負けても、「悔しいな」にとどまり、
全身全霊で次は打ちのめしてやるという、桁違いのエネルギーが生まれることはない。
俺は南京大虐殺に対して少し否定的だが、俄然肯定するがお前の話もきこう、という中国人がいて、そいつと話し合えるならもしかしたら納得する余地はあるかもしれない。
そうならば俺は持論を一生懸命に伝えるだろうし、聞く。


ABCとD・友達の間には明確な一線がある。
Dというのは極端な例で言えば「反日運動で暴徒化した韓国人団体」みたいなもの。明らかに話しあいの余地はない。どちらが正しいとか論ずる隙間すらない。
解きほぐすにはドラマティックな変化か、相当の仲介がないと無理だ。個人単位でもそういう人間はいる。というか俺視点では残念ながら結構おおい。
殺すか放っておくか肩を抱いてやるしかない。
同じ言語を話しても言葉が通じないので今のところは諦めるしかない相手。

分かり合えること、土台を同じくすることが友達の条件ではない。だからABCDの余事象が友達なのだ。
土台が違うから全て敵、ではない。合わない部分があっても一緒に感動したり笑いあえるならそれは友達だろう。


更に土台の説明をする。土台というのは、本当はそんなに敷居が高いものではないはずなのだ。話し合う余地、話が通じる余地があるかどうか。
ちゃんと意気投合しとおせるかはまた別問題なのだ。しかしそれだけのハードルでも、ほとんど引っかかってしまうのは
俺の偏狭な価値観のなす業だろうか。

ちなみにこれは人間関係の話だが、自分と相手によってABCDの認識が違うことは十分ありうるし、その場合でもあまり問題はない。
ジョジョの6部に、吸血鬼DIOと神学生プッチの対話シーンが出てくる。
プッチは「神のことを愛するように君のことを愛している」と言うんだが、DIOは「思ってもみなかったのだ。話をしてると心が落ち着く人間がいるなんて…君がいなくなるのが怖かったのだ…」と応じる。
ずいぶんホモくさい会話だけれど、とにかく、プッチはDIOをAだと思っているしDIOはプッチをBだとみなしている。それで摩擦は生じてない。

管新財務大臣は官僚に「けんかをしよう」と言ったらしい。けんかして仲良くなろう的な。
果たしてそのけんかが、C ライバルに対してかD 敵 に対してかで大きく変わってくる。
やはり争点は、互いに理解しあう余地があるかどうかに集約される。個人的には、管さんは官僚のことを何にも分かってなくて決め付けているし、官僚も管さんを理解するつもりがなさそうだから、
これはD同士の関係になり、足の引っ張り合いで終わると思う。
ライバルとは高めあう関係であるというのは絶対に必要条件である。

ここからは俺個人の話にうつる。俺はB 仲間が非常に少ないので憂いている。ちなみに0人になってしまうと話し相手がいなくなって孤独死する。
もう少し単純になれればよさそうなのだが。ここで、元々の俺のカラーをとする。
それだけじゃ狭いから、と黄色を精一杯とりいれたつもりが、混ざってになってしまった。
青でも黄でも土台を同じくできるはずが、緑というより限られた属性を有することとなった。
もう少し柔軟に、分けて使えれば「一体感を感じる」相手は増えるはずなので、その方向に持っていくつもりだ。


俺は将来的な視野に留学を入れている。Harvard Universityは、わけ隔てなくさまざまな国の学徒を採る。当然、生まれ育った環境や価値観が違うやつばかりだろう。
じゃあそいつらは仲間やライバルになれないのだとしたら悲しすぎる。
だが本気でぶつかれば敵ばかりではないだろうという予感もある。
するとやはり「土台」というのは習慣や性、価値観とかましてや民族の差ではなく、
分かり合える可能性といった問題になってくるのだろうか。
文化は違えど、互いに本気になれる奴がいたらとってもワクワクする。


朝からこの分け方を思いついて、練りまくって書いた。また付け足したりすると思うけれど、自分の中がスッキリ整理されて気分がいい。
posted by 熊りん at 22:15| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月06日

生意気に練習を考えてみた

明日なんとか身を練習会場まで運べば、高校2年にして初めて
年始合宿をやり通したことになる。
フライングで記事書いたら明日の朝発熱とかしそうなので控えるべきなのだろうが。
休んでも荷物もってかえってもらえないしなw

この年始合宿は「もうこんなにいらんだろう」っていうぐらいしんどい。
「こういう風にしんどい練習をやり通したら忍耐力がつく。そしてそれは将来にも生きてくる。景気が悪くなってもそこは忍耐で乗り切れ」
的なことを先生が仰ってた。前半はすごく同意。水泳を人生に活かさなきゃ。
しかし前も言ったけど、努力=忍耐=しんどい ではない。

かつて京都は馬鹿みたいに練習する人がいっぱいいて強かった。しかし今は弱い。「今の子は軟弱だから」なのだろうか。他府県はそんなに泳ぎこまないけど強い。
才能がないなら忍耐(内容や時間)でカバーしようというのは日本社会の縮図みたいで悲しい。
俺の主張として、何回も言ってきたが、我慢するのが絶対的に偉いという風潮は間違っているということがある。

無論ある程度の忍耐力は必要である。それが無いのに文句を言うのは単にだらしがないだけだ。だが、あくまで"ある程度"だと思う。

願わくば方法を学んでほしい。競泳の究極は「楽に速く」 練習だって、楽に短くで強くなれるならそれに越したことはないはず。
闇雲に時間をかけることに先生側も選手も自己満足してしまってはヤッパリ頭打ちすると思う。"忍耐"は金科玉条じゃない。

しかしそんな理想的な練習方法はきっと、選手が相当意識高いことを前提としている。何で時間が短くて済んでいるのかを正確に理解して、その練習の真髄をつかみつつ泳がないといけない。
朝っぱらから大量の人間が泳ぐときにそんなことを一々気にしながらというのは確かに難しいから、難題なメニューを突きつけておくのも一番効率的なやり方かもしれないのだが。

でもでも、果たして先生は突っ立って厳しいメニューをつきつけ、こなせない奴を愚痴るだけの集団は強くなるんだろうか。
何人も先生がいるのだからタイムを読み上げるだけじゃなくて指導とかもっとできることはあると思う。
今日は的確なこといっぱい教えてもろたので非常に感謝してるが。

とはいえ、そんな偉そうな意見が言えるようになるにはまず練習をこなせなくてはなりません。だから死にまくりの熊りんにはあんまりそんなことを言う資格はない。
しかし、水泳で学ぶことが、とにかく理不尽なぐらいキツいことも理屈抜きにして集団で乗り切ることだけであり、一番タフな奴が英雄になる文化があるのだとしたら、
それは本当に企業とかの好む優秀な奴隷を大量生産しているだけだと思う。
疑問を持つことと、疑問を持つ資格を得るため実際に痛みを知ること(練習に文句言うのは実際に練習をこなしてからってこと)を忘れてはどんな集まりだって閉塞すると思う。

俺のようなタイプはきっと将来のサラリーマンとしては激しく失格。元祖厨2病ちっくな物言いだけどなw


ところで熊りんの体はゆがんでいるらしい。傾いてねじれてると。
猫背は気づいてから多少マシになったんだが、まだまだ自分の体を使いこなせていない模様。うーん、凄いね、人体。

明日は練習後に整体に行ってみようと思うんだ。
posted by 熊りん at 23:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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